純潔のマリアの見方を考え中

 石川雅之による漫画原作のアニメ「純潔のマリア」の見方を悩み中…って次回最終回じゃんって感じですが、まだ上手くつかめずにいます。
 悩むポイントの一つは、この作品が「現代の何かを比喩しているのか?」で、純潔さが極端に強調されていたり、本人の覚悟以上に世の中への影響力を持ってしまっていることなどから、「現代のアイドル」を表現しているのかなあ?と思いつつも、そういう風に観るとなんかモヤモヤするなあって感じです。
 ただこのモヤモヤは「もやしもん」ビールの回などでもあって「アイドルになれば世の中チョロいでしょ」みたいな、好きなのか見下してるかがよく分からない感じで、もしかしたら石川雅之の作風かなあとも思います。
 また、実在した地上の教会だったり歴史を振り返ってみて比較的矛盾のない天使のあり方に対して、ファンタジーバリバリな力を持った魔女を並べて描くことで「教会が間違っている」ように見える設定が極端だなあと思いました。
本当に魔法を使う魔女が実在するなら、(地上の)教会の教えはそもそも違う形になってたのでは?と。
 さらに、百年戦争のどこからマリアは介入していたのか?というの気になります。
奪われた土地を奪い返す戦いでも「魔法を使い強制的に止めさせる」というのは土地を奪われたことで生存が脅かされる人には気の毒ではないかと思いました。(って、当時の農民は支配者が変わってもあんまり影響無かったりしたのかなあ)
 一方でエンディングとかでマスコットキャラとして強調させて描かれる、フクロウのアルテミスにプリアポスと鳩のエゼキエルなんかのやりとりを観てると、「マスコットキャラ萌え」はすごいなあと思います。
 「人間であることが悩みになるアイドル萌えよりも、マスコットキャラ萌えで弁えた方が良い」みたいな主張があるならある意味深いのではとか思っています。
 次回最終回での終わり方でその辺もある程度明確になるのかなあと思っているので、楽しみにしています。