日常に対する感動の考察

 自分が気づけていないだけで、人が生きるということ、そしてその日常というものはとても素晴らしい…みたいなメッセージがぼくはあまり好きではありません。
 もちろんぼくも40年近く生きていると、何でもない日常の素晴らしさに心を打たれ、美しい夕日を見ただけで涙を流したなんてことはあります。
 それでも、今この瞬間目の前にある日常が愛おしいものであるかと言われると、それはともて面倒で、長すぎてうんざりするものであり、何よりも失敗が許されないとても恐ろしいものであると感じています。
 日常を振り返ってちょいと気に入った過去の一瞬を切り出して、「どうだ日常は素晴らしかろう」と言われたところで「んなもん知ってらぁ。でも面倒なもんは面倒なんだ。つーか、総量で言えば面倒が多いのじゃー」となってしまうのです。
 まあそんなぼくがやっていけるものの見方というのが、「日常というのはやっかいなものであるが、それでも時々愛おしく見えることがあり、そういうのを見つけられる自分って凄いし、そんな自分なら、たぶん生き残れる」…みたいな感じです。
 ポイントは、日常とは最悪であるという後ろ向きさと、見つけた自分すげえという前向きさであると考えています。