物語シリーズ 終物語(下)と戯言シリーズ ネコソギラジカル(下)を比べてみて(ネタバレあり)

評価:
西尾 維新,VOFAN
講談社

¥ 1,620

(2014-04-02)

 先日、記事にした終物語(下)を、物語シリーズの完結とちょっとフライングしつつ、戯言シリーズ の完結であるネコソギラジカル(下)と比較したいなあと思います。
…無造作にネタバレしちゃうかも知れません。。。
 終物語(下)を読み終えて物語シリーズ全体の流れを観ると、改めてミステリー作品だったなあと思いました。
しかも怪異譚とミステリーを織り交ぜることで、犯人の動機を読み進める瞬間に手が震えるくらいに興奮するという、ホワイダニット(なぜ犯行に至ったか)がメインの珍しくも新鮮なミステリースタイルでした。
そして、ホワイダニットを心底大切にする阿良々木暦だったり羽川翼の影響で、ハーレムなのかご都合なのか、偽物語までは「めでたしめでたし」な感じに収束していました。
 このあまりに都合の良い状況に対して、本当にこれで良いのか?という疑問から、セカンドシーズン以降妙に「めでたくない」気配が生じ始め、どういうラストになるのかが読めなくなります。
 一方、同じくミステリー作品でハウダニット(どうやって犯行を成し遂げたか)を重んじたために人が死にまくった戯言シリーズのラストであるネコソギラジカル(下)は、「散々人を殺しまくってトリックを楽しんだ以上、いまさら主人公ごときの不幸は惜しめない」(西東天が比喩した言葉を語っています)という「めでたくない」泥沼にまっしぐらで、最後までどうなるかが読めません。
 で、ネタバレをするならば両方とも見事、ご都合主義でちょっとハーレムなハッピーエンドに落ち着きます。
ただし双方共に、それに納得出来る落とし前がつけられています。
戯言シリーズに関しては「哀川潤」が物語シリーズに関しては「忍野扇」がキーキャラクターになります。
 戯言シリーズは上記のとおりいまさら「お目出度い」落ちが許されず、そもそも不幸なオチが似合う「いーちゃん」と「玖渚友」が主人公とヒロインで、これはもうバッドエンドまっしぐらかなあと諦める準備をした辺りで、哀川潤が「てめえみてえな不幸な奴と玖渚ちんみてえなかわいそうな奴とのおしまいなんだぜ――――ハッピーエンド以外は認めねぇっつーの」の一言から、王道なハッピーエンドの二人を愛でたいという気分にさせられ、ハッピーエンドを楽しむことが出来ました。
 言葉遊びをするなら「めでたくない」を望む奴には「愛でたい」と思わせれば良いじゃんという感じでした。
 そして、物語シリーズに関しては偽物語で阿良々木暦によってごり押しなハッピーエンドになった結果、「ここまでお膳立てされたハッピーエンドはありがちだな」という気分になり、多少なりとも陰りのあるラストが欲しくなって来ました。実際ぼくはセカンドシーズンは、ブラック羽川は羽川により消され、八九寺は成仏して、忍は神様として阿良々木暦の元を去り、神原は悪魔から解放されて、戦場ヶ原ひたぎとの恋だけが残る…卒業みたいな切なさが残る「ひたぎエンド」になる予想をしてました。
 などと思っていたら…それらを批判するかのように「忍野扇」が物語をまぜっかえします。
その結果、逆にハッピーエンドが「ありがち」ではなく「ありがたい」と感じるようになっていて、やはり楽しむ事が出来ました。
 という案配に読者の思い込みやら期待を上手く操りながら、両作品とも最終的にはほのぼのしたハッピーエンドに導くわけですが、この例から西尾維新がハッピーエンドの作家なんだなあなんて思っていると、刀語あたりで物凄い喪失感を喰らわさせられることになると思います。
…つーか、ここまで書いて、続・終物語がめちゃ凄惨な結末を描いてたらどうしよう(笑