ノイタミナのバッテリーを観て思った事

 あさのあつこによる児童文学作原作のアニメバッテリーを観ていて、アレコレ気になりました。
ってあくまでアニメ版で気になった点で、映画版では特に気にしてなかったし、原作ではどうかは未確認です。

TVアニメ「バッテリー」公式サイト

 で、具体的に気になった点はスポーツがどれほど社会的同意と周りの人間の結構な労力を使って出来ているのかという世知辛さが描かれていないところです。
 特に生徒が学校の反対を押し切って勝手に試合を出来てしまうシーンでは、グラウンドは誰がどうやって借りたのか?両チームの選手や荷物の移動はどうやったのか?審判をどう手配したのか?など、大人の選手でも個人で解決するのは難しいのではと引いてしまいました。
…特にアニメ版のグラウンドがとにかく綺麗でプロかよって感じでしたし(笑

 現実ではそれらの問題は、学校の施設を利用したり、部活のマネージャーの力を借りたり、さらに選手の家族も手弁当で手伝い、ボランティアの人達や、気が良い地元の人達の様々な協力を得て、どうにか解決して競技が出来るようにしています。
 だからこそスポーツ選手は全ての人に礼儀正しくなければならないし、その環境を作り維持してきた先輩や周りの大人に(腹でどう思ってようが)敬意をあらわさなければならないです。
そして、その礼儀やルールを守れない選手やチームは、その競技を守りたい人達から追放されてしまいます。

 バッテリーではそういう社会的スポーツ選手として態度の悪い主人公巧が問題の火種を作りそれによって出場停止となったチームが、巧の野球というスポーツスキルで挽回しようとする、マッチポンプただし延焼部分は放置…みたいなです。
 型にはまらない天才がスポーツや社会の常識を覆す物語と思えば爽快感もあるのですが、今の時代は巧のようなタイプがやらかすことが結構な問題として炎上する(そして性格だけ巧みたいな人は凄く多い)ので、そういう意味で危ないしマネしたら行けないと思いました。