学校教育の実用性と学歴という肩書きで思うこと

 先日も少し記事にした学校教育について改めて考えています。
きっかけになった「悩みどころと逃げどころ」での、梅原さんとちきりんさんとのやりとりなのですが…

 梅原さんは学校教育の学歴が肩書きとして役に立ったシーンが(多分)無いのに学校教育の重要さを推すのに対して、ちきりんさんは学歴によって(良い企業へ)新卒就職しているのに「学校に行く意味ある?」的なスタンスで語っています。
 それに対してぼくはちきりんさんは現職がどうかは別にして、卒業・就職時に学歴という肩書きが有効に働いていたのは間違いなく、それはやっぱり学校教育(で頑張った努力)によって利益を得ており人生の役に立った(と言える)人なのだと思います。
 …仮に社会に出た後に学校教育で学んだ事が役に立たないというか矛盾することがあったとしても、それらは社会人としての挫折であり学校教育の意義とはまた別物だと思うし、学生時代の頑張り(とか栄光とか地位)をその先まで持ち込めないことを不満に思うのは、過剰な期待と感じます。新卒入社(できた)時点で感謝と共に使い切ったと手放すもの…くらいでちょうど良いのかなと思います。
 まあ、学歴に限らずなのですが、ある種の肩書きを一度きりのものと割り切って感謝をもって使い切って手放すのは本当に難しいのかも知れません。

 ちなみに梅原さんは学歴の後押しとかなく成り上がった人にも関わらず学校教育は大切だと語っているのは単純に人として素晴らしいと思うのと同時に、学歴という肩書きが無いことで受ける不利益を経験したからだと思います。
その辺考えると、肩書きで得たものは忘れがちだけど、肩書きが足りずに得られなかったものは一生忘れないよなあと改めて感じました。

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