コミュニティへの接し方

 先日、ある対談動画を観ていると、他人の葛藤を如何に処置するべきかを語っている人と、自分にはその葛藤はないと主張する人に別れていて、これがいわゆるコミュニティへの接し方の違いなのかなあと思いました。
 自分が理解出来ない他人の葛藤を理解出来ないことを理由に考えないというのは、つまんねえ奴と思うと同時に、その人がどの範囲のコミュニティを「一心同体」であると考えているかがうかがえると思いました。
 この「一心同体」の定義は、良いお父さんの語る「女房子供が居ないなら生きる意味がない」とか、「我が祖国に身命をなげうつ」とか、「この会社に骨を埋める」みたいな感覚です。
 似て非なるものに、子供にとっての家族というコミュニティがあり、そちらはコミュニティの存続が自分の生存に関わりますが、自身はその存続に責任が無いという関係です。
 現代はこの一心同体というものが非常に少なく、むしろ共依存で不自由な状態であるとすら扱われており、今時の新しいやり手は他人の葛藤に興味がない人なんだろうなあと思います。
 一方で昔ながらの大物は、コミュニティを自身の生存に利用する方法を考え、その人間にとってはコミュニティの一員の葛藤は自らの葛藤であると考えるタイプだと思います。
 以前ぼくは、コミュニティに属さない派だったのですが、DJパーティだったりイベントに関わるようになりいくらかコミュニティと一心同体であるという感覚が芽生えてきています。
 この心境の変化によって、世の中にある思考法やルールやツールのほとんどはコミュニティと個人を繋ぐものであると感じるようになり、たぶんこっちの方が面白く、そして合理的なものだろうと予感するようになってきました。