妖怪アパートの幽雅な日常10を読みました

 香月日輪によるライトノベル妖怪アパートの幽雅な日常10巻を読みました。
最終巻と言うことでついに、主に長谷の祖父である恭造を中心とした霊能力がメインの物語でした。
 とはいえ霊現象を現実世界にある何かの比喩にしているような作風は健在でした。
霊能力者であるところの龍が大活躍する描写もどこか、若者(子供)の稲葉夕士と大人が協同で何かを成し遂げる中で改めて気づく、その道に熟練した大人に対する尊敬の比喩もあるのかなあと思いました。
 …初めて大人と同僚として仕事をしたときに、教師や親からはなかなか素直に感じられなかった、凄い大人って居るんだみたいな敬意に気分良く気づく感覚と少し似ているのかなと思いました。
 また、今回も9巻同様に、ダメな奴はダメというバッサリ切り捨てている描写がありました。
 今時の相手を深く知る描写がある怪異譚でこういうバッサリ切る感覚は結構珍しいのかなと思う一方、そもそも怪異譚ってどうあっても分かり合えないトンデモな存在があって、それと出会ってしまい理不尽に酷い目に遭うことを描く事で、ある種の警戒心を養うものだったなあと思いました。
 今回最終巻ということで、長谷泉貴や千晶直巳のその後がやけに詳しく描いてあり、まあそれを事前にWIKIで読んでいたぼくはその辺がメインになるのかな?と思ったのですが、それらは恐らく作者の中で膨れあがったキャラクター設定のごく一部を出しただけという感じでした。
 あくまで、この作品は夕士が妖怪アパートという居場所を見つけ、そこで成長していき、一般社会の常識と葛藤しつつ自分だけの生き方を見つけられました…みたいな作品であったと思います。
つうか夕士、長谷と千晶に食われすぎ(笑
 香月日輪の別作品「僕とおじいちゃんと魔法の塔」との共通点として、魔法の塔や妖怪アパートといった物理的な建物がポイントになっていて、都合の良いハコに依存しているように感じていました。
 それが大人になった夕士にとっての妖怪アパートが日常の空間になっているのを感じた時、大人が作って子供に与えた場所ではなく、子供が勝手にその場所をそうだと思い込んで出来ていた場所だったんだと感じ、切なくも温かい気持ちになりました。
 子供が勝手に命名した、たとえば秘密基地みたいな場所が思いかげず社会と繋がっていたり、そこでしか学べないことってあったなあと思い返されました。
 この完結を読んで改めて素晴らしい作品だったなあと思いました。