下記のニュースなどで語られる友人不要論に関する意見をいくつか聞いて、アレコレ思うことがありました。
林修先生が提唱する”友人不要論”納得の理由とは? – エキサイトニュース
林修先生が語られたのは、「友人は大切」「沢山友人が居るのが重要」という強い同調圧力に疲れた人に向けた「頑張らなくても良いよ」系の友情溢れるメッセージだったと思います。
「沢山友人が居るのが重要か問題」で悪役にされがちな、動揺の「一年生になったら」の「ともだちひゃくにんできるかな」に対して「自分にはともだちちっとも出来ない」という怒る人と「そうだ!そうだ!」と一緒に怒ってあげるのも、すげえ良い友人のあり方だと思います。
「それでも一人になるのは不安だ」という人に対して、「孤独でも平気」と色んな情報をくれるのも、やっぱり友達的な感覚だと思います。
さらに「自分のために友達を切った」というのも、今繋がっている人達(友達)への自己紹介みたいなもので、不器用な友達的感覚だと思います。
…と言う案配に、「友人不要」の言葉って案外「友情」とか「善意」が溢れる矛盾した言い回しになることが多いので、議論として面白いのかなと思います。
ただこの主張を普通の人が人前で言うのは罪深いと思います。
単純に逆の立場で考えて、自分が友人だと思っている人から「不要」だと言われるのはとても悲しいし傷つきます。
さらに第三者からは、不要と言われたことを理由に、その人(達)も見くびられたり批判されたりすることがあります。
これは、ある種のコミュニティでは大きな問題に繋がることがあります。
そして、ネットの炎上の仕方を見ていると、聞きかじっただけの人の感情にもとても大きな影響を与えるようです。
…という風に、「友人不要」発言はハッキリ言えてしまう人の感覚では理解出来ないくらいに、多くの聞いた人の気持ちに大きな影響を与えてしまいます。
こういうギャップのある議論で、自分が鈍感な側に居る場合は、まずは意識の切り替えが大切だと感じました。
などと偉そうなことを書きつつ、ぼくも「友達一人も居ない」みたいな自虐ネタはよく言います(ドヤ顔で友人不要は言った事ないはず)が、この記事を書いてる内に本気でやばさに気づき、改める事にしました。(いつになることやらですが